音楽

2007年8月11日 (土)

阿久悠さん「瀬戸内少年野球団」の淡路島

阿久悠さんの出身地は淡路島。

映画「瀬戸内少年野球団」の舞台である。

(映画のロケ地についてはこちら

製作はYOUの会=ヘラルド・エース

YOUは阿久悠さんのYOUなのだろうか。

その阿久悠さんのテレビ特番を数年前に見て、その偉業に圧倒された。

「これも、あれも、みんな阿久悠さんだったのか。」

子供の頃に、友達とふざけて、物まねをしながら歌った懐かしい曲が次々と紹介されていた。

その阿久悠さんと仕事をご一緒したことがある。

オフィス・トゥ・ワンというプロダクションを訪問し、阿久悠さんと名刺交換をして会議を同席した。

物静かだが、なにもかも見透かされるようであり、それでいて、思いやりのあるやさしい人だった。

そして、その阿久悠さんという偉大な才能を産出した島、淡路島を訪れたのは、それから何年もしてからで、西暦2000年の淡路花博の時である。

映画「瀬戸内少年野球団」のなかで、主人公の駒子先生(夏目雅子)の夫である中井正夫(郷ひろみ)さんが、淡路島を花卉栽培によって花いっぱいにしようと夢見ていたのだが、淡路花博会場には、まさにその通りになっていた。

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(写真:沖縄本島の植物園で撮影)

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2007年7月 2日 (月)

周防大島のデュオ、マウンテンマウス

山口県周防大島のマウンテンマウスという兄妹の仲良しユニット。

瀬戸内の島々に暮らす人たちに元気をあたえたいと、島にちなんだ曲を披露しているらしい。

山口32の離島を歌の橋で繋げよう」などのCDがある。

山口県上関町にある八島の人たちとの出会い(こちらのブログに写真)を通して生まれた曲もあるとのこと。

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写真は、周防大島に行ったとき撮影。

この写真のどこかに仲良し兄妹ユニットはいたのだろうか?

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2007年4月19日 (木)

島へ~海を渡る音(東京の夏・音楽祭2007)

アリオン音楽財団が「島へ~海を渡る音」という音楽祭を企画している。

ホームページをみると、

「古くから、大洋や内海に浮かぶ島々は、海上をゆく貿易商人や旅人たちの通り道でした。人々の往来とともに、さまざまな文化もまた、島々を通過していきます。そのまま行き過ぎるもの。留まるもの。根を下ろすもの。…島には、陸続きの土地とは異なる生活文化の混交があります。島とは、内なるものと外なるものとが出会う場所。さまざまな時空の海を漕ぎ渡りながら、そこに浮かぶ島々の芸術文化を紹介します。」

とある。

青ヶ島やパラオと小笠原の音楽、それから八丈島でのシンポジウムなどもあるようである。

アイスランド、カリブの島、タンザニアの島など海外の島嶼文化も堪能できそうで、楽しみな企画である。

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2007年1月18日 (木)

離れるということ2(奈留島に贈られたユーミン「瞳をとじて」、マンハッタン島に向かうビリージョエル「さよならハリウッド」から)

(その1より続く)

広辞苑をみても、「離れる」という言葉には、「超越する。」とか「拘束された状態などから解放される。」といった意味もあることが確認できる。

また、「離れ技」は「並みよりも一際すぐれたわざ。」であり賞賛に通じているし、「離れ穢し(ぎたなし)」は、「未練が多くて離れにくい。」とか、「金離れが悪い。しわい(けちという意)。」と、ある意味では、潔く(いさぎよく)離れないことを嘲弄する言葉である。

この様に見てくると「離れるということ」には、どこか潔さ(いさぎよさ)に通じるi意が込められているとも考えられる。

ただし、「離れるということ」に潔さ(いさぎよさ)に通じる何かを感じるためには、無責任で利己的な態度は許されず、利他的で思いやりのある態度がしっかりと担保されていなければならないだろう。

そして付け加えれば、「男はつらいよ」の寅さんのように、家を出てしまっても、そのうちに故郷が恋しくなってしまい、すぐに帰ってしまうような、人としての可愛げや弱さがあってこそ、潔い(いさぎよい)感じが残るのかもしれないとも思う。

ところで、1975年、長崎県の奈留島の学校(奈留高校)の女子生徒が、深夜放送でDJをしていたユーミン(松任谷由実さん、当時は荒井由実さん)に、「校歌をつくってください」とリクエストをし、ユーミンがそれに応えて奈留島に「瞳をとじて」という名曲を贈ったことはよく知られたエピソードである。

この「瞳をとじて」の歌詞は、「遠いところへ行った友達に、潮騒の音がもう一度届くように、今、海に流そう」と、島から「離れるということ」が織りなす人間模様を描いており、そこに深い郷愁を感じるのだが、その淋しさの中にはどこか未来への希望を含んでいて、その名の通り、島の風景が瞼の奥に浮かぶようでノスタルジックな美しさがある。

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また、ビリージョエルの「さよならハリウッド(SAY GOODBYE TO HOLLYWOOD)」も、

「街を出るのはいつだってまたうまくやろうとするチャンスなんだ。ひと言まちがえりゃ、友達だったやつも行っちまう。ずっと・・・永遠にな。だからいろんなやつが、おれのそばに来てはまた去っていく。ずっと続くのもいれば、すぐに行っちまうやつもいる。人生は、こんにちはと、さよならの連続さ。また別れの時が、来てしまったよ。(歌詞対訳:山本安見)」

と歌っていて、ロサンゼルスを離れる淋しさと同時にマンハッタン島に向かうよろこびも感じられて、「離れるということ」がどこか未来に向けた積極的な力を幾重にも持っていることが自然に伝わってくる名曲だと思う。

以上、離島(りとう)という言葉と「離れるということ」について綴った。

とにもかくにも、これらの曲を聴けば、「離れるということ」がただ単に淋しいことではなく、どこか自主独立に通じた響きがあり、希望につながるパワーをも秘めたものであることを素直に感じることが出来る。

そして、「離れるということ」がもしもそういうものであるとすると、日本が6852の島々から成り、それぞれが海によって「離れていること」から得るものは、ひょっとしたら我々が想像するよりも遙かに大きなものではないかと思えてくるのである。

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東京諸島の御蔵島(みくらじま)で撮影。

ゆっくりと「離れること」で、情感のある想い出に熟成されていく。

島旅の醍醐味ではないかと思う。

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2006年12月29日 (金)

三宅島と第九と(ベートーベン「第九」とまちづくり)

年末といえば、ベートーベンの第九が有名であるが、地域おこしとベートーベンの第九は不思議と縁が深い。

今年もいろいろな地域で第九の企画があるだろうと思って調べてみたら、やはり各地で様々な催しがあるようだ。その中で、三宅島にちなんだベートーベン第九の企画を見つけたのでご紹介したい。

来年(2007年)の7月に三宅島支援コンサートが企画されており、「第九を歌いませんか?」とNPO法人神戸ルネサンス倶楽部.がインターネットで呼びかけている。

ところで、四国の鳴門市は日本で第九が最初に演奏された場所であることをご存じな方も多いと思うが、

鳴門市に設置された「バルトの楽園」鳴門ロケサポート協議会事務局のホームページをみると、(以下、抜粋)

「1914年。第一次世界大戦で日本軍は、3万の大軍を送り込み、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した。ドイツ兵4700人が捕虜として送還され、日本各地にある俘虜収容所に収められる事となる。

厳しい待遇が当然な俘虜収容所の中で奇跡のような収容所が徳島県鳴門市の板東に存在した。

板東俘虜収容所の所長を務める会津人の松江豊寿(まつえとよひさ)は、陸軍の上層部の意志に背いてまでも、ハーグ条約に則りドイツ人捕虜達の人権を遵守し、ドイツ人俘虜収容所としては例のない寛容な待遇をさせた。

ドイツ人の捕虜達は、言語・習慣・文化の異なる地域住民と民族を越えた素朴な人間愛を育みながら収容所での生活を送る。

そして、休戦条約調印、大ドイツ帝国は崩壊する。自由を宣告された捕虜達は、松江豊寿や所員、そして地域住民に感謝を込めて、日本で初めて『交響曲第九番歓喜の歌』を演奏することに挑戦したのであった。」

とあり、鳴門市には、BANDOロケ村~歓喜の郷~というその史実に基づく映画「バルトの楽園」ロケのオープンセットまであり、一般に公開されているようである。

また、鳴門市はドイツのリューネブルク市と姉妹都市にもなっていて、さらには、ドイツ館を建設するなど、その歴史への思い入れはずっと受け継がれているようである。

ちなみに、鳴門市ホームページには板東俘虜収容所の歴史がより詳細に説明されていて、それを読むと鳴門市の人達の思いが伝わってくる。(下記は、鳴門市ホームページより抜粋)

「・・・彼ら(板東俘虜収容所の所員たちのことを指している)の活動は驚異的で、所内に80軒余りの商店街、レストラン、印刷所、図書館、音楽堂、科学実験室、公園、別荘群などの施設を造るほか、健康保険組合、郵便局などの互助的活動も行いました。また、学習、講演、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も盛んで、とりわけ音楽活動では、ベートーベンの「交響曲第九番」の国内初演をはじめ、複数のオーケストラや様々な楽団が100回を超える演奏活動を行いました。

所外においても、俘虜製作展覧会や各地での演劇、演奏会活動など、ドイツ文化を広く市民に紹介しています。その他、 牧畜、製パン、洋菓子、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど様々な技術をもたらし、なかには現在もそれが受け継がれているものもあります。これらのイベントや技術指導によって、俘虜たちは地域社会に受け入れられ、板東の町やその周辺では、地元の人々と日常的に交歓する風景が当たり前のようになりました。・・・・」
(以上、抜粋)

いつか、「BANDOロケ村」と「ドイツ館」に立ち寄ってみたいと思う。

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